苦手だった上司と、終電を逃した夜
30代前半 · 女性 · 約4分
編集部制作 — 実話かどうかは、想像にお任せします
最初は、本当に苦手な人でした。仕事では怖かった上司と二人きりになり、終電を逃した夜。それまで知らなかった彼の顔を知りました。
最初は、本当に苦手な人でした。
仕事はできるけど少し細かくて、言い方もきつい。
私が入社して2年目の頃、その人は直属の上司でした。
「これ、数字合ってる?」
「すみません、確認します」
「確認してから持ってきて」
そんな会話ばかりでした。
だから、まさかあんなふうに二人で話すようになるなんて、最初は全然想像していませんでした。
きっかけは、たぶん残業です。
その頃、部署で大きな案件を抱えていて、毎日のように帰りが遅くなっていました。
23時を過ぎると、さすがにフロアに残っている人も少なくなります。
ある日、気づいたら私と上司の二人だけになっていました。
「まだ終わらない?」
「あと30分くらいです」
「じゃあ俺もそれまでいるよ」
少し意外でした。
仕事が終わったのは0時少し前。
二人で駅まで急ぎましたが、改札に着いたときには終電が出た直後でした。
「終わったね」
上司が笑いました。
その人が笑うところを、ちゃんと見たのはそのときが初めてだった気がします。
「ちょっと飲んでから考える?」
普段なら断っていたと思います。
でもその日は、なぜか「いいですよ」と答えていました。
駅前の小さなバーで、初めて仕事以外の話をしました。
離婚していたこと。
娘さんがいること。
休みの日は一人で映画を観に行くこと。
「俺のこと嫌いでしょ」
「嫌いというか……怖いです」
「やっぱり」
二人で笑いました。
店を出ると雨が降っていました。
上司がタクシーを止めました。
「ホテル探します」
と言うと、
「うち近いけど」
一瞬だけ間がありました。
「何もしないから」
そう言って笑いました。
帰る方法はいくらでもあったと思います。
でも私は、そのタクシーに乗りました。
車の中ではほとんど何も話しませんでした。
途中で一度だけ、上司の手と私の手がシートの上で触れました。
どちらも、すぐには動かしませんでした。
それだけです。
少なくとも、タクシーの中では。
朝、目が覚めたとき、隣で彼はまだ眠っていました。
昨夜まで「上司」だった人が、同じベッドで寝ている。
それがなんだか不思議で、しばらく横顔を見ていました。
起こさないようにベッドを抜けて、床に置いた服を拾いました。
鏡の前で髪を直しながら、
「私、何やってるんだろう」
と思ったのを覚えています。
でも、不思議と後悔はしていませんでした。
彼を起こさないまま部屋を出て、一人で会社へ向かいました。
いつもより少し早く着きました。
コーヒーを買って自分の席でメールを確認していると、いつもの時間に彼が出社してきました。
私の席の横を通るとき、
「おはよう」
と言いました。
「おはようございます」
と返しました。
昨夜のことには、どちらも触れませんでした。
数時間前まで同じベッドにいた人と、会社ではいつもの上司と部下に戻っている。
たぶん周りの誰にも分からなかったと思います。
でも私には、その日の「おはようございます」が、それまでとはまったく違う言葉に聞こえました。
数ヶ月後、彼は別の部署へ異動しました。
今はもう連絡も取っていません。
でも深夜まで仕事をしていると、ときどきあの夜を思い出します。
終電に間に合っていたら。
雨が降っていなかったら。
あのバーに入らなかったら。
たぶん何も起きなかったんだと思います。
だから今でも、終電を逃した夜だけは少し特別です。
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